20240413_雑記

 忙しく労働をこなしていたら、四月も中頃である。
 大学生なら入るサークルをそろそろ決める頃で、いつも見合わせる顔ぶれも少しずつ安定する頃だろうし、毎日新しいことが起こって楽しい時期もあったかと思うだけ、最近はやや疲れている。

 四月の初週、有給休暇の申請をした。いきなり四時間くらいの残業でスタートして気力の糸が切れてしまったのもあるが、JRの企画切符である「青春18切符」を余していたことを思い出したからである。JRは今年から販売期間を年度初めに公開しなくなった。昨今はかつての幹線の第三セクター化も著しく、乗り通せる区間も減ってきているため、近くこの切符もなくなってしまうかもしれない。
 行き先は、まだかつて行ったことのなかった岐阜・富山方面にした。一日目は下呂温泉に宿泊し、二日目と三日目は富山に宿泊した。富山ではちょうど桜が見頃だったのと、ホタルイカのシーズンで、夜には浜に行ってイカを採りに海に入っている人を見に行った。駅前は観光客向けのハイソな飲み屋が立ち並んでおり、赤提灯系の飲み屋が見当たらず、探せばあるのだろうが、今回はその点だけがやや心残りなことである。

 帰りは敦賀経由で、新幹線を使った。昨年は旅行が気分転換になっていたが、あまり気持ちが晴れずに帰阪する。
 
 このところ自分の人生が何も進んでいない気がしており、変に焦燥感を持ち始めている。気づいたら二七歳も終わりに近づいている。やれ結婚だ、とかいった話は、否定形発達気味だった過去から半ば諦めているが、ここ数年は私生活にもドラスティックな話もなく、着々とヘンテコなまま老いているだけのような気がしている。体感として「できる」ことを増やしたほうがいい気がしている。
 
 直近、資格試験の勉強をするにはノイズが多すぎるので、一人であることに早く慣れたい。

雑記_20240413

 忙しく労働をこなしていたら、四月も中頃である。
 大学生なら入るサークルをそろそろ決める頃で、いつも見合わせる顔ぶれも少しずつ安定する頃だろうし、毎日新しいことが起こって楽しい時期もあったかと思うだけ、最近はやや疲れている。

 四月の初週、急に糸が切れて有給休暇の申請をした。いきなり毎日四時間くらいの残業でスタートして疲れてしまった。JRの企画切符である「青春18切符」を余していたことを思い出したからである。JRは今年から販売期間を年度初めに公開しなくなった。昨今はかつての幹線の第三セクター化も著しく、乗り通せる区間も減ってきているため、近くこの切符もなくなってしまうかもしれない。
 行き先は、まだかつて行ったことのなかった岐阜・富山方面にした。一日目は下呂温泉に宿泊し、二日目と三日目は富山に宿泊した。富山ではちょうど桜が見頃だったのと、ホタルイカのシーズンで、夜には浜に行ってイカを採りに海に入っている人を見に行った。駅前は観光客向けのハイソな飲み屋が立ち並んでおり、赤提灯系の飲み屋が見当たらず、探せばあるのだろうが、今回はその点だけがやや心残りなことである。
 
 このところ自分の人生が何も進んでいない気がしており、変に焦燥感を持ち始めている。気づいたら二七歳も終わりに近づいている。やれ結婚だ、とかいった話は、否定形発達気味だった過去から半ば諦めているが、ここ数年は私生活にもドラスティックな話もなく、着々とヘンテコなまま老いているだけのような気がしている。体感として「できる」ことを増やしたほうがいい気がしている。
 
 近く、資格試験があるのだが、落ち着いて勉強をするには日常にノイズが多すぎて全くそれどころではなかった。一人であることに早く慣れたい。

ゴロワーズを吸ったことがあるかい?

 その日はDJの友人がイベントに出演するので、渋谷にあるクラブの扉を開けていた。チャージを払ってビールを受け取ると、友人に肩を叩かれた。久々の再会を喜んで乾杯し、そしてお互いの近況と最近聴いた音楽の話をする。

 彼の出番にはフロアに出て踊った。ジャンル違いなDJとの入れ替えだったので、それまでいた人が引いて僕ともうひとりになっていたが、そんなことはお構いなしにむしろ空間を広々と使ってはしゃいだ。彼もまたそんなアウェーな状況に構わず、いつものように切れのいいカットインで曲を繋ぐ。

 ハイネケンの缶を片手にゆれていたときに、彼の選んだ一曲が気になった。多分、どこかで聴いたことがあったのだろう。特徴ある歌詞に覚えがあったものの、タイトルを知らない。

――気になった曲があったら、直接DJに訊くといい。

 昔行ったイベントで、誰かにそう教わったことがある。

「どうしてですか?」

 そのとき僕はスマートフォンのアプリを使って曲を調べていた。それは精度のいい楽曲検索アプリで、マイクで拾った曲のタイトルを検索してくれる。

「それがきっかけで面白いことが始まるかもしれないからね」

 いいからとにかく話しかけてみなさい。その人はそう言うとダンスフロアに戻っていった。こんな便利なものがあるのにと思いつつ、その言葉が妙に引っかかった。おまけにアプリの検索にも引っかからない。

 勇気を出してさっき曲をかけていたDJに話しかけた。曲のことを訊ねると嬉々としてタイトルだけではなく、曲の背景やらレコードを手に入れたときのことも教えてくれた。一般にはレコードディガーとも呼ばれるある種のDJは、自分がその日かけた曲について訊かれると嬉しくなる人種であるらしい。そのまま会話が続いて、若者だからとお酒も奢ってもらい、その人の二周目の出番では会話のなかで出た僕の好きな曲までかけてくれた。楽しくなってブースの前ではしゃいでいた僕と目が合うと、忙しなく機材のつまみを動かしていた手を止めてピースを返した。教えてもらった曲のタイトルは結局忘れてしまったが、その楽しい一夜を過ごして以来、気になった曲はなるべくその場で直接DJへ訊くことにしている。

 出番の終わった友人に曲のことを訊くと、揚々とバッグからレコードを取り出してきて見せてくれた。彼はそういう昔のお洒落ポップスにやたら詳しい。かまやつひろしという人の「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」という曲だった。曰く、ドーナツ盤のB面に収録されて長らく忘れ去られていたが、あるきっかけで再評価されて以来、彼の代表曲のひとつのようになっている。レコードのジャケットを見ると全く違うタイトルで、その曲のタイトルは隅に小さく書かれていた。ゴロワーズとは、そういう煙草の銘柄なのだろう。

ゴロワーズって、吸ったことある?」

 僕はなんとなく聞いてみた。

「ないね、見たこともない」

 そして、続ける。

「たぶん、この曲のゴロワーズはハッパのことを言ってて、そういうトリップするものを吸ったことがあるか、という内容なんだと思う」

 そういうと、彼は自分の煙草に火を点けた。黒いマルボロだった。僕はスマートフォンのメモに、タイトルを記録する。ゴロワーズを吸ったことがあるかい。こういう会話で出たことは、たいてい家に帰ると忘れてしまうので、マメにメモするようにしている。こうして「そんなこと、知ってどうする」といった余計な知識ばかりが増えていく。

 イベントが終わって友人と別れたあと、終電近くの中央線に乗って帰った。今日は寝過ごして高尾まで行ってしまうことはないだろう。最寄りの駅に着く頃に決まって喉が渇いて、ペットボトルのお茶を買いにコンビニへ立ち寄るところまで想像がついた。

 いつものようにコンビニへ立ち寄ってお茶を持ってレジに立った時、さっき煙草が話題になったことも、お酒が入っていたこともあったかもしれない、初めて店員の後ろに並んだ巨大な煙草のケースを意識した。煙草を吸ってみよう。そう思った。

 そこには、とにかく沢山の煙草が並んでいたが、ざっと見てゴロワーズは無さそうだった。無くなってしまったか、きっと珍しい銘柄なのだろう。そう色々と思案していると、不審だったのか怪訝そうな顔で店員がこちらを見ている。

 後ろに人が並んだので、慌てて目に入った銘柄を指した。「KOOL」という名前のものだった。緑色の箱だからメンソールなのだろう。五ミリグラムの表記があった。何がどう五ミリグラムなのかは知らないが、以前友達から貰って吸ったことのある「赤マル」や「ゴールデンバット」よりは少ないらしい。片言の「こちらでよろしいでしょうか」との確認に頷いた。肌の黒い外国人の店員は慣れた手つきでバーコードを読み取って、僕の顔をちらりと見ると、画面に表示されていた本当ならば客側が押さなければならない年齢確認ボタンを、レジの内側から手を伸ばして押した。

「はい、四五〇円」

 ライターを持っていなかったことを思い出して「ちょっと待って」と言って取りに行くと、嫌そうに「後ろに並んでいるので」と付け加えた。

 会計を済ませて店を出た。律儀に入れられた袋はとても軽い。中身は干し草なのだから、当たり前なのだが。胸ポケットに仕舞うと、ふと昔いたサークルの先輩のことを思い出して懐かしくなった。

 その先輩は出会ったときからとてつもない雰囲気を持っていた。大柄な体格や落ち着いた話し方も相まってバンドサークル界隈のドンさながらだったが、しかし権力はないので、現役でサークルを動かしているメンバーを微笑ましく眺めている。

 その先輩は当時、大学四年目にして一年生と二年生を一回ずつ繰り返していた。そのことを本人は全く気にとめていないようで、僕が「授業はどうしたんですか」と余計な世話を焼くと、必ず「さぼった」か「寝坊した」と言った。ギターもベースも弾けて、そのうえドラムも叩けるので、いくつものバンドを大学内外で掛け持っている。最近、よく警察に職務質問をされるという話を聞きながら家へ遊びに行くと、部屋にシーシャの器具と海外産の煙草の葉があった。とにかく色々と曰く付きの人である。

 大学のバンドサークルというのは、コピーバンドを組み内輪ライブを企画して仲間と遊ぶことがルールの集まりである。しかし、僕はといえば内心でそういうのを馬鹿にしていた。理屈っぽく音楽やカルチャーの話をすることが好きな一方で、生産性のない非合理的な集団はクソだと決めつけていたので、サークルに染まっていく同期にはまるで馴染めず、しかしサークルを抜けてひとりになることもできずに、全く面白くないバンドを組んでは下手くそなギターを弾いていた。

 サークルの活動拠点の前には灰皿スタンドが置かれていて、世知辛いまでに数少なくなった大学構内の喫煙所に指定されていた。先輩はたいてい、その喫煙所となっている場所で、遠くを虚ろに眺めながら煙草を吸っている。銘柄はまちまちで、あるときそれについて訊くと、煙草なんてただ吸えればいいのだと言った。煙草に飽きると決まって立てかけていたギターを持って、ヘッドと弦との間に吸いかけの煙草を差しこんだ。先輩の持っていたギターは、どれを見てもそこだけ茶色く焼け焦げている。このようにしているのはエリック・クラプトンの真似事だと、あるとき教えてくれた。

 話しているといつも、決まって誰それの曲がどうとかいう話題になった。話が弾んでくると、その辺に転がっていたアコースティックギターを抱えて、そのまま話題に出た曲をセッションと称して演奏をする。ギターが下手くそな僕は、コードをなぞって弾くことしかできない。それで先輩はいつも適当にリードギターを弾いて乗ってきた。日によってそれが打楽器になったり、ベースになったりもした。思えば自分こそ、生産性のない非合理的な学生の時間を過ごしている。

 その先輩から時々「一本やるわ」と煙草を貰うことがあった。たいてい話題がなくなったときで、僕はとりあえず言葉に従って貰うものの、いつもタイミングを見計らって胸ポケットに仕舞っていた。当時は未成年だったが、それ以上に勇気がなかった。「吸わんのかい」といつも笑われたが、強引に吸わされることはなかった。ポケットに入れていることを忘れたまま家に帰って、そのまま洗濯機で服を洗っては頭を抱えた。

 例えばここで先輩と一緒に煙草を吸っていたら、もう少しサークルの雰囲気に馴染めたのかと思ったりする。同期もいつの間にかどこかで手に入れた煙草を吸っていた。今から思えば、煙草もサークルの一要素だったのだ。しかし結局、煙草を吸うことはなくサークルからフェードアウトした。斜に構えた態度が鼻についたのかもしれない、活発に活動していた別な先輩を中心に、ツイッターに悪口が書かれた。そのことは仲の良い友人から教えてもらった。でも、そうなった頃にはすでに足が遠のきかけていた。そもそもバンドを組んで遊ぶことに興味がなかったのだ。早々とそれまで組んでいたバンドを抜けて、グループラインを退会し、知人にギターを売った。付き合う人が変わるにつれて、コードの押さえ方も忘れて、先輩のことも忘れていった。

 それでもしばらくは、大学で会ったかつてのサークルの知人から先輩のことを聞くことがあった。相変わらず授業にも出ず、忘れた頃に現れては煙草を吸っていると言った。その後は知らない。最後に聞いた話のようでは、卒業にはもう少し時間がかかりそうな感じだった。

 次の日、遅めの大学の講義から帰ってきて洗い終わった洗濯物を取り出したときに、ふと下駄箱の上に置かれた煙草の箱が目に入った。昨夜は帰ってきてシャワーを浴びると、すぐに床に就いていた。

 ラッピングを取って、換気扇をつけた台所で煙草に火をつけた。口に咥えるとライターの距離感が分からないので、ライターと煙草をそれぞれ手に持って火をつけた。それから見真似で吸ってみるも、肺に入れることができず口に煙を溜めてしまうので、早々水に濡らして消した。

 その次の日の夜はベランダに立った。煙草は口に咥えて、手を当ててライターの火をつける。相変わらず距離感を測るのが難しかったが火はついた。肺に入れるのだと意識すると、胸元に熱い空気が入ってくるのを感じた。喉にハッカのスーッとした感じが残って、それがすごく心地いい。しかし次の瞬間には、咽かえってしまった。もう一度体験したいがためにその夜は三本吸って、しかし同じように咽かえった。次の日も同じように吸ったが、咽ることがなくなった。本数を重ねるごとに、煙草を吸う行為に上達した。お酒と一緒で、慣れがあるのかもしれない。手に持った煙草を写真に撮ってツイッターに上げると、誰かからの”いいね”がついた。

 ベランダの欄干に寄って煙草を吸っていると、中学生の頃に仲良くしていた、髪の毛と自転車のハンドルを立てた友達を思い出した。テスト期間で早帰りした日。早々勉強に飽きて散歩していると、自転車に乗った彼がホーンのラッパをぱふぱふ鳴らして現れて、自慢げに「俺、タバコ買えるんだぜ」と言う。半信半疑でコンビニへついて行くと、僕の目の前でセブンスターを買った。店員として立っていたのは彼の知り合いだったらしく、仲良く手を振って店をあとにした。

 たいていの授業中、彼は寝ているかどこかへ消えた。上級生の卒業式には髪の毛をオレンジ色に染めて現れ、校舎に向けてロケット花火を打ち上げた。先生やクラスメートは扱いに困っていたが、彼は彼でまた友達がいなかった。

 一方で、転校生だった僕もまた友達がおらず、色々な仲間グループを転々として付き合っていた。新興住宅地の中にある新しめのマンモス校から、田圃に囲まれた古く小さな学校への転校。初めは物珍しさから歓迎されたが、どこにも馴染めず次第に孤立していった。馴染むにはその土地の文脈を理解してなぞる必要があることを知った。

 コンビニから少し歩いたところの、大きめの用水路にかけられた橋の上に立った。この用水路は梅雨の時期に鯰の群れが、秋には本流から間違って入ってきた死にかけの鮭が泳いでいるのが見えて、あるときはそれらに向けて石を投げて遊んだ。

 彼はクラスの誰それが喧嘩して仲が悪いとか、誰かが付き合って別れたといった話を教えてくれる。普段教室にいない割には、そういった話にやたら詳しいのだった。そういうクラスの情勢を、紙パックのいちご牛乳を片手に聞いている。彼は煙草を吸い終わると、決まって橋の下を流れる川に投げた。吸殻は一瞬で流れていき、すぐに見えなくなった。

「吸うか?」

 そう言って差し出された煙草を一瞬手に取って、そのまま彼に返した。

「やめとく」

 そう僕が言うと、彼は詰まらなそうな顔をして、返したばかりの煙草を口にくわえて火をつけた。

「ああ、まあサボリだもんな」

 その友達に比べて幾分か優等生じみていた僕は、時々彼のアヴァンギャルドな遊びや悪戯の提案を断った。そのたびに彼は、半ば諦めたようにそう言って納得するのだった。

 今、その彼と同じように次の煙草に火を点けている。箱の半分も空けると、煙を肺に入れることに慣れて、短くなるまでゆっくり吸うことができるようになっていた。しかし、本数を重ねるごとに自分がいかに煙草へ興味がないかということも分かってきた。吸っていたメンソール煙草は、それ以上にもそれ以外でもなかった。ただ今は、あらゆる煙草を吸っていた人の姿を思い出しては、煙に引き出された記憶の地点に思いを馳せている。

 吸っていた煙草が短くなってきた。そのまま下に投げ捨てようとして思いとどまる。欄干の下は川ではなく建物の屋上だった。僕は今、東京の大学に進学した際に借りた、オートロック付きワンルームマンションのベランダにいた。

――ああ、まあサボリだもんな。

 記憶の彼がそう言う。あのときは橋の上で、諦めたように納得してくれた。彼の言うとおり、各々が立っているところでやっていくしかないのだ。その辺に転がっていた空き缶に吸殻を突っ込んだ。誰かが家に遊びに来て煙草を吸って以来、そこで放置されていたのだろう。いずれまた使うと思い、エアコンの室外機の上に置いて部屋に戻った。

 その週末、ジムでトレーニングをしていた。虚弱体質を改善したいがために登録して、暇があれば通っていた。肉付きがよくなり体重も上がってくると楽しくなって、自分で考えたメニューをこなすことが習慣となっていた。

 しかし、その日も普段のように何セット目かのウェイトをあげたとき、突然胸に激痛が走った。汗とともに身体が一瞬で冷えて、息をすることも辛い。朦朧とした意識で移動して、なんとかマットへ横になる。しばらくすると痛みは引いて立ち上がれるようになったものの、帰り道は歩いているだけで息が切れて、そのたびに膝に手をついて休まなければいけなかった。

 ただ、痛みに覚えがあった。なんとか歩いて行った病院でレントゲンを撮ると、左側の肺がぺしゃんこに潰れている。

「よく、これで歩いてきたね」

 レントゲン写真を見た医師が笑った。肺気胸の診断が下り、施術室で脇からドレーンが差し込まれ、病室に寝かせられた。煙草とスキューバダイビングはドクターストップ、退院後しばらくは気圧が変化するようなところに行くことも禁止。そのうえ、二度開いた穴は手術になり大学病院の紹介状まで貰った。至れり尽くせりだ。

 一夜明けて、遠くに暮らす両親が見舞いに来た。「入院することになった」と電話すると一応は驚いていたが、肺気胸自体は二度目なので、あまり心配されていない。

「おー。弱ってるぅ」

 病室の僕をみた父が、檻に入れられた動物を見るかのようにして笑った。

 家に着替えを取りに行くというので自室の合鍵を渡して任せると、勝手に冷蔵庫を開けては「ろくなものを食べてないね」といい、「部屋が臭い」やら「汚い」などと、聞いてもいない平均的な男子大学生の部屋の感想を電話口で述べるのだった。入院の書類に必要な印鑑の場所を教えたところ、そこに置いていた予備の合鍵も見つかった。バイクが趣味の父は、それに乗って遠方へ旅行する際によく息子や娘の自宅を拠点に寝泊まりする。本当ならば高級旅館に行って優雅に生活してほしいのだが、友達の家で雑魚寝して寝泊りする大学生の気分が抜けない。

「――あと、煙草はやめなさい」

 電話の切り際、厳しめな口調で母が言った。煙草と肺気胸の関係もうるさく言われた。神経質な母とは相性が悪く、実家にいた頃からよく口論になる。しかし、こちらも多少は大人になったので、母とはそういうものだと諦めて素直に受け流す。

「そうだね、そうする」

 そう言って電話を切ったあとで、読みかけた本の世界に戻った。

 その日の午後は診察も予定もなかった。スマートフォンツイッターをチェックするとDJの友人が次に出演するイベントの告知を出していて、僕はそれに”いいね”をつけた。退院して今度そのイベントで会ったときには、この前のイベントでの選曲は、肺に穴が開いてしまうくらいすごかったと話題にしようと思った。

羽田と成田を間違った話

 大学三年生の春休み。就職活動にすっかり出遅れてしまった僕は、いっそのこと大学生を好き勝手にやってやろうと開き直って、旅行へ出かけることにした。

 行先はベトナムの首都、ホーチミン。丁度その頃、高校生の頃から読んでいたベトナム戦争を題材にした漫画が完結したこともあって、その地を訪れてみたくなったのだ。

 国際線の飛行機に乗ることは初めての、フェリーで行った韓国の釜山に次いで二回目の海外旅行。両親には一言「ちょっとベトナム行ってくる」とだけラインを送って、背負えるだけに見繕った荷物と、同じくらい軽い気持ちのまま当日の朝を迎えた。

 ところで、お金に関係することはすこぶるけちな僕は、航空会社のサイトから予約を取る際に一番安いチケットをひとまず確保しつつ、何日間かに渡って値段の変動をチェックしていた。多少の日程変更はなんでもない程度には、大学生の春休みを暇にしていた。それで結局三回ぐらい予約を変更して、初めに取ったものよりも一万円くらい安くチケットを確保することができた。しかし、最初に取ったチケットが成田空港発で、何度か変更して最終的に決めたチケットが羽田空港発ということは、空港に着いた三時間前まで気付かなかった。

 ワクワクしながら成田空港の国際線ターミナルに到着して、ポケットに入れていたEチケットを取り出すと、そこには羽田発と書かれていた。見間違いと思い、舐めるように紙を見ても、確かにそこにアルファベットで”HND”、羽田空港発としっかり書かれている。思わず「えっ!」と声が出て、前を歩いていた男女がちらっと僕のことを見て去って行った。浮かれ気分は一瞬で冷めて、遠くまで押しやったはずの現実がどっと押し寄せてきた。

 茫然と近くのベンチへ腰を下ろすと、少しずつ頭が回り始めた。安い便なので、出発直前に変更はできない。このままカウンターに行ったところで、出来る事はないと予想がついた。時計を見て、電車なら間に合いそうだと思う。スマートフォンで電車の発車時刻を調べると、チェックイン時刻ぎりぎりに到着する電車があるようだった。もうすぐの出発である。

 それを知るや否や国際線ターミナルから飛び出して、巡回バスに乗り込んだ。下車した建物のエスカレーターを転がるように下り、今から飛行機に乗るであろうビジターの流れに逆らってコンコースを走って、改札にスイカを叩きつけてホームへ辿りついた。そして、そのとき丁度乗るべき特急電車のドアが閉まった。間に合わなかった。

「終わった……」

 魂の抜けた身体と再びフリーズした頭でとぼとぼ引き返し、窓口から改札を出る旨を伝えた。さっき改札を抜けた際、あまりの勢いに驚かれていた駅員のお姉さんに「お急ぎでしたか?」と訊かれたので、事情と時間を説明する。念のため調べてもらうも「こちらで出来る事はないようです」との回答を頂いた。そうですか、と礼を言って立ち去ろうとしたとき、先ほどのお姉さんが言う。

「上階にタクシープールが御座いますので、それが最後の手段と思われます」

 金の斧も銀の斧も取り上げられた僕に、女神から第三の選択肢が与えられたのだった。ケチな貧乏大学生の頭にタクシーの選択肢は思いつかなかったのだ。

 急いで上階のタクシープールへ行った。暇そうにしたおじさんが数人立って、立ち話と一緒に煙草を吸っている。「羽田空港まで幾らでしょうか」と訊くと、ひとりが車内から金額の記載された案内表示を取り出して、指を指した。定額二万七千円。ワオ。旅行の航空券代にもほど近い金額が提示されて固まった僕に、おじさんが「で、乗るんか? 乗らないんか? ま、乗るしかないんだろうがな」と、煽ってくる。なんだこいつ。遅い反抗期を迎えた二一歳、クソジジイにはとりあえず反発したい。しかし、今は言葉を飲むしかなかった。ああ、乗ってやるよ。乗るしかないんだよ。開けられたドアからリュックを座席にぶん投げ、タクシーに乗り込む。立ち話を切り上げた運転手が遅れてどかっとシートに座って、セルを回した。

「お兄さん、かっ飛ばしていくからな。気を付けろよ」

 タクシーは教習所のお手本のようにするっと走り出し、そのまま高速道路へと入っていった。諦めの悪い僕は「どうにか電車に追いつかないでしょうか」と訊いてみるも、「いやー無理でしょう、あはは」と笑いながら一蹴された。黙るしかなかった。

 スマートフォンでインターネットを検索すると、体験談が山のようにでてくる。「受付のカウンターは時刻ぴったりに閉まる」ということをこのときはじめて知って、準備の甘さを思った。電車に乗れなかっただけ、まだ可能性の高い選択肢を取っていた。他人の例を読んで、この数十分のどんでん返しに段々と諦めがついた。流れていく景色を眺めながら、帰国した後を考える。少なくともこの予定外の出費をどうにかしなければいけなかった。しかし、現実逃避に出てきて現実を考えるのも、もう嫌だった。

 タクシーはさっきから車を追い抜いてばかりいた。ふと、どんな速度で走っているのかと速度計をちらっと見ると、一四〇キロ近くを指していた。なんとこのタクシー、法定速度ガン無視で高速道路の第一車線をかっ飛ばしている。

「運がいいね。この辺いつも渋滞なんだ」

 速度違反の運転手が言った。渋滞よりも警察に捕まりそうである。しかし、それも杞憂だった。舞浜のディズニーランドの横を過ぎるとき、突然車速を落として後続に道を譲った。そのまましばらく走ると周りに合わせてアクセルを踏んで速度を上げた。「どうしたんですか」と訊くと、そこ、と運転手は高速道路の路側帯を指した。黒色のセダンが止まって見えた。もはやプロの犯行だ。

 会話が続いたので、羽田と成田を間違う客は普段どれほどいるのかと訊くと、その運転手だけで毎日二人乗せているという。他のタクシーも合わせると結構な数になると思われた。渋滞にはまって遅れてしまう人も多いという。

「とにかく今日は運がいい、詰まりそうなところが流れている」

 運転手の言葉の通り何事もなく首都高に入って、そのまま大井を過ぎた海底トンネルの中のインターチェンジを下りた。トンネルを抜けると羽田空港の前に出て、飛行機が真上を横切って飛び立っていった。あっという間のゴールだった。

 チェックイン時刻から結構余裕のある時間に到着して、料金も表示されていたメーター分だけまけてくれた。それでもギリギリ持ち合わせが足りずに今日三度目の冷や汗をかいたが、利用上限額を上げたクレジットカードに助けられた。運転手が言っていたように、とにかく今日は運がいい。このとき受け取ったレシートは、今でもパスポートに挟んで反省と記念に持っている。

 かくして、搭乗に無事に間に合って一週間の壮大な現実逃避に勤しんだ。もちろん帰国後は、使いすぎてしまったカードの支払いのためにアルバイトのシフトを増やすこととなり、ますます就職活動どころではなくなったのは言うまでもない。

チョコボに乗りたい

2019.6

 

「ダチョウに乗ってみない?」

 朝食にでてきたフォーを食べているときに、宿泊していたゲストハウスのオーナーが言った。「ダチョウ?」と、ダイニングテーブルに座っていた人が口々に言う。

「楽しいと思うよ、タクシーで行くから――何人かいるといいな」

「ダチョウって、あの鳥のダチョウですか?」

 昨夜、一緒にクラブへ行ったガタイのいい男の子が言った。

「それ以外に何があるんじゃい」

 日本人であるオーナーの素性はよく分からないが、何日か前、夕食の屋台を共にしたときに「世界各国を旅したあとで、たまたまベトナムでゲストハウスを始めた」と自己紹介をしていた。

「でも、どうして行こうと思ったんですか」

「なんとなく。思い出したから」

 なんでも、半年前にゲストハウスに停まっていた人を連れて行くとダチョウが暴れに暴れて、乗った人が振り落とされた挙句に脱臼までしていたので、お蔵入りしていた観光地ということだった。

「他にない場所だから、やっぱ気になってさ――」

 宿泊者で実験しようとするオーナーの人間性を疑った。しかし、次の瞬間には参加者に名乗り出ていた。僕が参加することになると、さっきの男の子と、その彼といい感じになっている女の子が便乗した。

 二足歩行の大型の鳥といえば、「チョコボ」の事を思い出す。

 「チョコボ」とは、ゲーム「ファイナルファンタジー」の世界に出てくる大型の飛べない鳥で、大きな頭と嘴を持ち、主に陸上の乗り物として用いられている、らしい。というのは、そのゲームで遊んだことが無く、小学生の頃に友達が下敷きか何かに描かれたそれを必死に説明してくれて、なんとなく知っている。

 でも、そのとき僕の心を掴んだものは、そのような二足歩行の動物に跨ることの方だった。漫画の世界にありがちな、大きな鳥に跨って大地を移動するその行為に興味があった。地面が蹴られる感覚を肌で感じながら、草原を走る様を夢見た。イメージは無限大である。限りなく広がった夢の中で、僕は「なんとか二足歩行の動物に乗れないものか」と思っていたのだった。

 参加者が出揃うと、オーナーは受付スタッフに頼んでタクシーを配車した。受付には日本語が堪能で料理もできる優秀なベトナム人のスタッフが待機していて、オーナーが毎晩のように滞在者との会食と称してお酒を飲んでいることを不満げに思っている。インスタグラムを眺めながら、そう言った。かくいう彼女たちは、四六時中とにかくスマートフォンを離さない。

 まもなくやってきたタクシーに乗り込んだ。タクシーは市街地を抜けて、ホーチミンの郊外に出た。片側三車線の大きな国道に沿って、新たな鉄道の高架線をつくっていて、田畑しかないこの辺もここ数年で一気に発展していくだろうとオーナーが説明した。

 マッチョの男の子が、昨夜の酒と車で吐きそうになった女の子を揶揄って笑った。聞くと、どちらもちょうど二〇歳らしい。それぞれ関東と関西から来ていた。

「ダチョウに乗るのって、チョコボみたいな感じかな――」

 さりげなく話題にしてみたものの、チョコボはおろか誰もファイナルファンタジーを知らなかった。

 明け方まで飲んでいたアルコールが程よく切れてきて、お気持ちハイになったところで目的地に到着した。看板には現地語の下に英語で「動植物園」と書かれていて、門を潜ると大きなダチョウとワニのモニュメントに出迎えられた。

 正午頃に到着したので、まずは園内のレストランでランチをとった。

 中華料理のようなメニューで、その中でもダチョウ肉の酢鳥は癖が無く美味しかった。昨夜の追い酒に瓶のハイネケンも飲んで、いよいよ調子がでてきた。本当に夢に見ていた二足歩行の動物の背中に乗れるのだと思って、とてもワクワクしていた。

 食後はみんなで園内を見て回った。

 ワニは個体の大きさ別に大きなプールの中で飼われていて、冬の漁港に集まって酸欠に喘ぐボラの大群のように、敷地みっちりとワニだった。そして、腐ったドブ水の匂いが鼻を曲げた。しかし、彼らは下水管でも生きていける生命力を持っている。

「前よりは少なくなったね」

 オーナーが言った。

「前はもっといたんですか?」

「あっちの区画にもいたと思った」

 そういって指差した先には、水の抜かれたプールがあった。

 目を凝らして見ていると、他の奴に噛み切られたのであろう片腕や片足の個体もいて、人間同様に密集して生活することはそれなりに大変そうな印象を持った。他の団体観光客がどこからか魚のブツ切りを持ってきて、ワニに投げ与えてはきゃあきゃあ騒いでいた。もしかしたら、どこかで売っているのかもしれない。

「そうだ。ワニ釣り体験は――」

 ワニ釣りは、数日前に行ったメコンデルタのツアーで体験していた。その時は、こん棒で殴って気絶させた鯰を糸のついた竹竿に結わえて、ワニのいるプールに垂らす遊びである。うまくいけば引き合いになるが、僕の鯰は一瞬で千切れてしまった。どうやらそれは、ここでのベタなアクティビティらしい。売り場を見つけて参加者を募ったが、誰も手を上げないので、そのまま順路を進んだ。

 いよいよダチョウ乗り体験の場所に着いた。簡素な鳥舎と、そこを走るのであろうに囲まれたトラックが設けられていた。雑草の生い茂る地面は堅そうに見える。

 一緒に来た人同士でジャンケンをした。罰ゲームのように順番が決まり、真っ先に負けた僕が最初の挑戦者となった。正直、順番などどうでもよかった。一万ドン札を出してチケットを買い、仏頂面の係員に渡すと、彼は竿竹程の長さの金棒を持って鳥小屋に向かった。程なくして、一羽のダチョウが逃げるようにこちらに向かって走ってきた。なんの変哲もない、ただのダチョウだった。

 初めは久しぶりに対面したダチョウの大きさに圧倒されて、かつての夢が実現しそうなことに感動さえ覚えた。だが、柵を潜って間近に見たそれは、背中の羽毛が剥げて鳥肌が見え、掴む場所であろう羽根の付け根が奇妙に曲がり、痛々しい姿をしていた。そして、これから僕はそれに乗るのだという事実をはっきり認識したとき、それまで自分が持っていた人間として真っ当な欲望を心底恨んだ。

 いつの間にかギャラリーも集まって、見慣れない光景に好奇な眼差しを向けていた。傍にいた中国人観光客は見世物を撮るようにスマートフォンのカメラを僕に向けていた。居心地が悪い。

 貧相な木の台に登って、今にももげそうな羽根の付け根を掴み、ダチョウに跨った。振り落とされないよう足でしっかりホールドするよう、係員に指図される。座る位置が定まらずにもぞもぞ動いていると乱暴に服を引っ張られ、背というよりは尾てい骨の辺りに腰を落ち着かせられた。自転車でウィリー走行するように重心が後ろに寄って、ダチョウの姿勢が高くなった。それがここでの乗鳥スタイルらしい。

 間もなく鳥舎のゲートが開いた。なかなか走り出さないダチョウに係員がさっきの金棒を振りかざした瞬間、まるでドラッグレースの車のように全速力で走り出した。突然の加速Gに負けじと、しっかり羽根を掴む。地面を蹴る感触が鳥の筋肉と背中から直接に伝わって、その生々しさに背筋がゾクッとした。

 見る間に向こう側のコンクリートの壁が近づいてきた。気持ちの準備する間もなく、ダチョウは突然左にターンした。遠心力でそのまま外側へ振り落とされそうになったが、羽根をいっそう強く掴むことでなんとか持ちこたえる。当たったら痛そうだった。もちろんヘルメットなどしていない。

 乗り場に向かって、尚もダチョウは走り続けた。ここが草原だったらどんなによかったかと思う。乗馬するように手綱や鞍がほしい。人に手懐けられていて、乗り物として乗りやすく、簡単に停まったり曲がったりできたらよかった。でも、ここは海外旅行で訪れた観光客には少し奇妙に見える国内向けのテーマパークで、ダチョウはジェットコースターと同じく、人を楽しませるためのただのアトラクションだった。いくら嘴で突かれ足早に逃げられようが、その背中に乗ってみたいと憧れる猛者はいつの時代にもいたに違いない。でも「乗鳥」というジャンルが生まれなかったのは、そもそも鳥の背中は乗るのには適していないからだった。人間にも、鳥にとっても。

 鳥舎に戻り、後ろ向きのまま滑り台を降りるように地上へ着地すると、無心に乗っているときには気にもしなかった周りの声が聞こえた。口々に感想を言っているようだった。中国人観光客には拍手もされた。手にはボロボロになった羽毛のカスがついていた。ジーンズについていたそれも誰からか指摘されて手で払うと、チリとして風に運ばれていった。つい今まで僕が乗ってきてゼーゼー言っているダチョウに、次の挑戦者が跨る。

 インスタグラムに上げるための動画を撮っていたオーナーが「なんだか今日のヤツは元気ないね」と言った。前回来たときのダチョウはもっと破天荒に暴れ、係員も人を乗せるのに苦戦していたという。

「安いし、もう一回乗っとく?」

 オーナーに訊かれ、「ええ」と間抜けな返事をした。一万ドン、日本円でおよそ五〇円。確かに安いが。

 茫然と他の人がダチョウに乗るのを眺めていた。ホーチミンの三月は真夏で、その日は三〇度を優に超えていた。昨夜の残り酒とランチの追い酒でハイになっていた時間も過ぎて、真っ当な疲れも感じ始めていた。喉の奥がへばりつくような感じがして、ふらふらと近くの売店に歩いて飲み物を買った。適当に選んだココナツの缶ジュースはとてつもなく甘く、味覚がそう判断していることに少しだけほっとした。